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うちのばあちゃんは、肺がんで死んだ。
検査をしていたんだけど、なぜか何も見つからず、死ぬ間際になって入院した病院で、末期の肺がんだと言われた。
それまでに、違う病院でいろんな検査をしてきたはずなのに、末期のガンが見つからないなんて不思議だった。
「息をするのが苦しい。」って最後言っていたけど、結局ばあちゃんは自分がガンだって知らずに死んだ。
ばあちゃんは、若いころ自分で飲み屋をやったりして、たくさんお金を稼いで、たくさん貯金をしたと言っていた。
そのお金を、人にたくさんあげたりしていた。
普段から、よくばあちゃんはお小遣いをたくさんくれた。
私が20代になって一人暮らしを始めて、時々実家に帰ると、帰り際に2万とか、3万とか、ばあちゃんに小遣いをもらった。
ばあちゃんは、何かと言うと、お金を配ってた。
病院の看護婦さんとか、近所の人とか、世話してくれた人とか、何かのお返しとか、貰ったもの以上に返してた。
ばあちゃんは、私を本当に可愛がってくれた。
私には、「何をやっても(あげても)惜しいと思わない。」とばぁちゃんが言ってくれた言葉に愛を感じた。
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私が小学校の頃から、母はフルタイムで働きに出ていたので、学校から帰るとばあちゃんがおやつを買って待って居てくれて、
「ただいま~。」と帰ると、ばあちゃんからおやつをもらって、すぐ2階にあがってテレビを観ていた。
ばあちゃんは下で夕飯を作って居た。
ばあちゃんのごはんを食べる時、「うまい。」と言うとばあちゃんが喜ぶのを知って居て、毎日「うまい。うまい。」と言った。
幼稚園くらいの頃、よくばあちゃんと少し離れたところにある、今でいうアリオみたいな、食品とか、服とかの店が入っているところによく買い物に行った。
ばあちゃんは私を連れてよく出かけた。
そこの1階にアイスクリーム屋さんがあって、
コーンの上のソフトクリームに、トロトロに溶けたチョコレートの中につけてコーティングしてくれる。
それで、カラフルなトッピングを乗せてしてくれる。
そんなアイスクリーム屋さんがあって、ばあちゃんがそこでアイスを買ってくれた。
36歳になった今でも、ばあちゃんにアイスを買ってもらったシーンをよく思い出す。
そんなばあちゃんは、私が2人目を妊娠してもうすぐ出産という時に死んだ。
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2人目が生まれるのを楽しみにした。
でも、生れる前にばあちゃんは死んでしまった。
あのばあちゃんが死ぬなんて。
私を溺愛して可愛がってくれたばあちゃん。
ばあちゃんが死んだと知らせを受けて、実家へ向かう時、車の中で大声で泣いた。
愛してくれた。
だけど、時々、自分の息苦しさをばあちゃんのせいにした。
ばあちゃんは、私に怒った事がなかった。
私が、万引きを疑われた時も、私のことを信じて疑わなかった。
私をほんとうに可愛がった。
私は本当に愛された。
生きている時には、いろんな事を思ったりしたけど、今はもう、愛されていた事にか覚えてない。
ばあちゃんの存在は大きかった。
良いことも悪いことも。
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でも、死んだらなぜか愛しか残らなかった。
今思うと、ばあちゃんをもっと愛せたかもしれない。と思う時がある。
もっとしてあげられる事があったのかもしれないと思ったり。
でも、その時はそれが精一杯だったんだと思う。
死んだ後は、寂しくて、いろんな後悔が過ぎったりしたけど、
魂はこの世で終わりじゃなくって、ずっと続く。
良く死んだ人が近くに居る様な気がすると言う人が居るけど、
それと同じで、きっと意識を向ければその人は居るんだと思う。
だから、時々ばあちゃんを思って、話しかけたりする。
「ありがとう。」と「愛してるよ。」と言ってみたりする。
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ばあちゃんは静かに聞いて笑ってる。
生きている人も、生を終えて帰った人も、みんな繋がっている。
見えないけど、エネルギーで感じる事が出来る。
私たちが見えている世界なんて、小指の先くらいちいさなもの。
本当は、もっともっと壮大。
愛で生きて、愛で死んでいく。あっちに行っても愛。
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たぶん全部、愛なんだと思う。
私たちがそれを求める様に出来ているって事は、その世界があるって事なんだと思う。
だから、たぶん宇宙は愛で出来ているんだと思う。