今日はコメダに来ています。
いつもスタバに行く事が多く、なかなかこちらに来なかったので久々だ。
コロちゃんが流行ってから、駐車場が目につく場所は何となく人目があり行きづらくなって、
あんなに大好きなスタバも、今やドライブスルーを利用する事が多くなった。
これって、都会に居る時は全く感じなかったが、
田舎で、かつ車社会だと、停まっている車で、『あの人はあそこにいた。』とわかってしまう。
田舎あるあるがある様に思う。
田舎も、都会も、住みやすい面も、そうでない面も両面ある。
今は、こちらの生活に馴染んでは来たが、四年前、田舎に越して来た時には、正直都会生活に慣れ親しんできた私には、いろんなしんどい面があった。
こちらのコメダちゃんは、近くにスーパーがあり、駐車場が大きく、人目を気にせず入る事が出来るのでなかなかいいな。
席も、丁度死角になり人目を気にせずゆっくりできる。
わたしはどれだけ人から隠れたいのだろう。
余程、人目に疲れているようだ。
周りの人の、『こうすべき、ああすべき』は、やはり私には息苦しい。
都会のように、周りを歩いても知らない人ばかりとはならず、
周りを歩けば知り合いに会う。
そんな感じで、いつも周りに目を光らせているような感じだ。
休みの日くらい一人で、ゆっくり休みたい。
束縛が嫌いで、自由人なわたしが、人に合わせて生きていくのはしんどい。
都会では、ある程度個性的な格好をしていても、その人の自由や、個性はある程度受け入れて貰えるが、
田舎ではそんな訳にはいかない。
一気に噂になり、周りと同じである事や、
調和を重んじられる。
だからと言って、田舎が嫌いな訳ではない。
今まで生きてきた環境が変われば、住みにくさも感じる。今までの生活の楽しみ方や、習慣が違うことがあるから。
そこで私が見つけた田舎の良いところ。
それは、心をよく見つめる様になったと言うことだ。
都会は物が沢山ある。服が欲しければ、数々ある店から選べない程たくさんの選択肢の中から、決めきれないくらい物が溢れている。
周りを見渡せば店ばかり、夜になっても光が消える事はないし、街は休まず動き続ける。
そんな中で、いつも外側を見続けていた。
外側、見た目、容姿、ネオン、街、光、目で見る刺激がたくさんあった。
わたしはそれが楽しみではあったが、
反対に、なかなか内側をじっくり見つめることは少なかった。(私の場合)
こちらに来て、好きな服のブランドがない、夜になれば店は閉まり暗くなる、山々や、星空を、こんなに味わう事がなかった。
都会にいれば星よりもネオンが見えるから。
そんな中で、好きな服を見にブラブラと歩き回る事が少なくなり、自然溢れる公園に行くようになり、緑を見るようになり、空を見るようになった。
慣れない生活や、今までとは違う習慣に、馴染んでいこうと試行錯誤しながら、悩み、
いろんな気持ちを通過しながら、
自分の心の中にある、隠していた物が炙り出されて行くようだ。
田舎に来て、今までの環境と違う場所に来て、心を見つめざるを得なくなった。
結論、何が言いたいかと言うと、良い言葉を使えば、幸せは結局自分次第であると言うことで。
どこにいても、自分の心次第で、楽しくもなれば、苦しくもなって、
苦しむと言うことは、自分の中にある、思い込みとか、決めつけとかの固定概念なよる物で、
それが現実に出てくる時に、ひとつひとついらないなら変えて行く。
自分が楽な考え方に変えて行く。
それをする為に、環境を変えて違う経験をする事は、自分のいらない概念を炙り出すのには有効であると言うこと。
かなり苦しいがな。
そうやって、経験して、どんだけ置かれた環境で楽しめるか、自分を試してるのかもしれん。
全て自分が作ってるゲームなのかもしれん。
解らんけど。
うちの家にツバメちゃんが巣を作った。
はじめは玄関に作っていたのだが、流石に玄関前にう○こを落とされるのは大変とおもい、攻防戦を数回繰り返したが、
ある日帰って来たら、今度は駐車場に、すでに巣が完成し、住み始めていた。
ツバ吾郎の根気に根負けし、彼にも妻がいて、これから雛が産まれ、守る家族が出来るのであろうと思い、共存する事に決めた。
ツバ吾郎を思えば、う○こを落とされる事など、水を流せば良いだけで、大した事のないように感じた。
ツバ吾郎にエールを送るまでになって来た。
今では、ツバ吾郎たち夫婦に、いつ雛が産まれるのか、我が家の親戚の様に感じ、子ども達と楽しみにしている。